この写真は、ただ1枚残る亡き祖父の写真。撮影時の年齢は不詳ですが、国鉄で若き助役をしていた頃、大平洋戦争の敗戦を契機に体を壊し、若くして旅立ったと聞くので、30代前半くらいでしょうか。
この写真の原本はモノクロですが、その1枚を慎重にスキャンし、AIテクノロジーの助けを借り、多少カラー復元したものです。キャビネサイズのモノクロの祖父は、子供の頃よりなじみ深いものでしたが、一度もあう機会のなかった祖父を実感した事はありませんでした。
それでも、こんな風に色がついただけで、急に実感が湧き、一目でも会いたかったな。と親しみが増すのですから、人間というものは、自分が普段考えているよりずっと単純なものなのなのかもしれません。
思えば、父の写真も極端に少ないのです。だからだなと思いこんでいたのですが、「家族や近所の人や何気ない普通の街を写すことは大切、どんな事でも記念だし、どんな事でも記録」と教えてくれ、小学生の頃からカメラを買い与えてくれました。
祖父は昭和24年に鬼籍に入り、たった36年後の昭和60年、父も旅立ちました。私は昭和41年の生まれですから、実際の祖父を見たこともありませんし、父とも本当に腹を割った話をした記憶がありません。同じ屋根の下に暮らしていても、当時はまだ反抗期の残照が強く、また、あまり家庭を顧みない父とは、折り合いを付けられませんでした。今だったら、もっと色々なことを話せるのに。
少し前、ある事情により父方の戸籍を辿る必要が出てきました。しかし、、、辿れたのは曾祖父まで。
戦災による戸籍原本焼失のため戸籍再編。曾祖父の謄本にその様に記載されていました。富山市総曲輪某・・・調べると間違いなく父の生まれ、富山市桜木町の旧名です。
生前、一度も父から戦災の話を聞いたことはありませんでしたし、祖母や今も健在の叔母からも同じです。時に父は9歳、叔母は5歳、ハッキリとしたことは覚えていないのかも知れませんし、思い出したくないのかも知れません。その様な中、祖父を亡くした祖母の苦労は、想像に余りあります。
思いがけない事実を知らされ少し調べてみると、終戦間際の昭和20年8月1日。その深夜から2日未明。米軍機による大空襲があり、富山の中心部の殆どが壊滅したとありました。その被害は原爆被災地である広島・長崎を除けば日本史上最悪、約2時間強に及ぶ焼夷弾、収束焼夷弾、ナパーム弾の市街地への投下、死者約2500名、被災者約11万人と報じられています。(米軍報告:爆撃地域の破壊率99.5%)
写真が好きで、時々撮っていたと聞く祖父。矛盾して、その一番大切な写真(=祖母、叔父、父、叔母)を見たことがないという事実。この点と点が、もしかしたらここに繋がったのかも知れません。
いずれにせよ、もはや祖父や父には会うことはありませんが、この1枚があったから、見えない系譜に僅かに色を付ける事が出来、思いを馳せることに繋がりました。
モノクロに限らず、写真の修復やデジタル化のお手伝いも致しておりますので、本当に大切な1枚がありましたら、是非、その復元とデジタルデータ化をおまかせ下さい。よろこんでお手伝いをさせて頂きます。