いじめ問題が注目されています。今更という感じがしないではないですが、防止する方向で世論が同調してくればそれは徐々に効果を現してくるのかなと思います。
いじめは本当に良くないことだと思います。積極的にせよ消極的にせよ、加害側にある限り、その責任に変わりはないと思います。
25年も昔の話ですが、私自身少しの期間でしたが、いじめ(いわゆる無視?)の対象となった経験があります。言動的には相当タフに見られる今の私ですが、当時は本当に心が虚弱で、しかも無視される理由が解らず、結構辛い思いをしました。それでもやり過ごせたのは何人かの仲間が居たことと、趣味のカメラと、偶然それを知った親が気晴らしにと学校を休ませてくれ小さな旅行(日帰りでしたが・・・)に連れて行ってくれたからでしょう。
当時の事を思い出すと、親に自分がいじめられていると言うことを知られるのは、辛いことでした。なぜなら親の悲しむ姿が想像できたからです。だから親は相談できませんでした。きっと昨今のいじめによる被害者の子供達もきっと同じ気持ちなのだろう・・と想像します。
ならば、やはり学校は受け皿を作るべきではないだろうか?もちろん具体的な解決も同時進行しなければならないけれど、話を聞いてくれる場所があるというだけでも大幅に気持ちが違うはずだと思うのです。そういう機関なり人員なりを恒久的に設置して、まずは避難所としてでも良いと思う。問題が深刻化する前にケースをキャッチすることが大切だと思うのです。
余談ですが私の場合、その後趣味と勉強に走りました。丁度3年だったこともあり、皆も徐々に自分の受験のことに集中しだし、徒党を組んで無視するというような現象は無くなりました。2学期になると何事もなかったようになりました。しかし、私の心には確かに大きな傷跡が残ったし、それは今も時には疼きます。他にもこんなクラスの人とならこちらから願い下げとばかりに修学旅行にも行かなかったことも重く残っています。いまでもそれが良い事だったのか残念なことだったのかは解りませんが、みんなが旅行に行っているその期間、代わりに4日間一人旅をさせてくれた両親にはやはり感謝です。このときの経験が写真をより好きにさせてくれたし、自分を見つめる事を初めて知った気がするし、出会う人々の優しさや厳しさを本当に知ったし、学校という枠組みが人生の中でのホンの小さなものに過ぎないと知ったし・・・このいじめられたと言う経験が、結果として幸いだったのかどうかは死ぬまで解らないと思うけど、それを何とか乗り越えたことで、自分が確かに強くなった気がしました。優しさとは結局は強さと対でなければ無力なんだと解ったことで、その後の生き様に影響したことは事実です。
今、いじめや無視などで傷ついている人がいるのなら、その場から逃げるとかではなく、そんな世界こちらから相手にせず、とりあえずは自分の世界を知る努力をしてみると良いと思う。おたくだっていいじゃない。引きこもるのはどうかと思うけど、少しなら良いじゃない。